青春シンコペーション


第3章 鬼教授が家政夫に!(3)


フリードリッヒ バウメンが来日した。薬島音大の理事長でもある磯部は得意そうな顔で彼を案内していた。
「ほう。こちらの大学ではなかなか良い設備が揃っているようですね」
フリードリッヒが感心したように言った。
「ええ。何しろ我が薬島音大は、これからの日本のクラシック音楽界をしょって立とうという若者達を育てようと努力していますからね。学生一人一人の個性と才能を伸ばすため、設備には随分投資しているのですよ」
「そうですか」
フリードリッヒは、練習室に置かれたピアノや防音設備、そして、落ち着いた風情のある中庭やロビーに飾られた見事な絵画などを興味深そうに見ていた。

「ねえ、見た? フリードリッヒ バウメン先生。素敵だわ」
行く先々で学生達が噂した。
「彼ってヨーロッパ各地のコンクールを総なめにした若き天才ピアニストなんですってよ」
彼が通り過ぎる度、女子学生達がため息をもらす。
「ハンス先生も美形だったけど、フリードリッヒ先生の方がもっと素敵!」
「透き通るような金髪碧眼ですらりと背も高い、典型的な外国人って感じだもんね。まるで童話の絵本から抜け出て来た王子様みたいだわ」
「天は彼に二物も三物もお与えになったのね」
「これから彩香さんの個人レッスンなんですって……。あんな美しい先生と二人きりなんて、羨ましいわ」
彩香の友人達も羨望の眼差しで彼を見つめた。そんな視線に気がついたフリードリッヒが彼女達に向けて微笑むと、また小鳥の群れのように歓声を上げた。

「どうも学生達が騒がしくてすみません。何しろあなたのような素晴らしい先生をお迎えできたことに彼女達も興奮しているのですよ」
理事長が誇らしそうに笑う。
「いえ、構いませんよ。慣れていますから……」
フリードリッヒは片手を軽く振って微笑した。

「それで、私が教えることになるお嬢さんはどちらに?」
「ああ、この上の階の特別レッスン室です。彼女は日本でも有数の有住財閥の御令嬢でしてね。我が校では最も将来を期待されている学生なのですよ」
理事長が彩香について簡単に説明した。
「そうですか。では、早速、彼女と直接お話させていただきましょう。コンクールまであまり時間がありませんからね」
そう言うと彼は先に立って歩き始めた。


レッスン室の前のソファーに掛けていた彩香が理事長達に気がついて立ちあがる。
「彩香さん、こちらが今度新しく君のレッスンを担当してくださることになったヘル バウメンです」
「こんにちは」
フリードリッヒが覚えたばかりの日本語で挨拶する。
「はじめまして、ヘル バウメン。有住彩香です。どうぞよろしくお願いします」
彩香も差し出された手を握って握手した。
「こちらこそ。どうぞよろしく、フロイライン 彩香」
フリードリッヒが爽やかに笑う。
「こんなにも美しいお嬢さんのレッスンが担当できるなんて光栄です」

そこはハンスのレッスンの時にも使われていた同じ部屋だった。しかし、今は少し雰囲気が違う。コーナーラックに飾られたシンビジウム。ピアノの脇には、上品な彫刻が施された肘掛椅子が置かれていた。彩香がエチュード4番を弾いている間、フリードリッヒはその肘掛椅子に腰かけて、じっと目を閉じていた。が、彼女が曲を弾き終わると、おもむろに椅子から立ちあがって叫んだ。
「ブラボー! 素晴らしい! この難曲をここまで完璧に演奏できるなんて……。どうやら私は日本のお嬢さんのテクニックを見くびっていたようです」
フリードリッヒが絶賛した。

「今度のコンクールは国内向けのものだと聞きました。しかし、あなたなら国際コンクールでも通用する実力があります。ここで満足してしまうなどもったいない話です。どうですか? このコンクールが終わったら、私の国、ドイツにいらっしゃいませんか?」
「でも、結果が出てみないとわかりませんわ。それに私、リップサービスは嫌いです」
彩香はそうきっぱりと言って彼を見た。
「リップサービス? ははは。私は本当のことしか言いませんよ。この日本にあなたを打ち負かせるような実力のある者が他にいるとは思えません。何しろショパンコンクールで優勝した私が言うのですから間違いありませんよ」
彼は笑顔を向けて言った。

「本当のことをおっしゃってくださいな。わたしの演奏はあまりにも機械的でつまらないんじゃありませんか?」
「謙遜ですか? 日本人は謙虚な国民性を持っていると聞きましたが、あなたに限ってそんな必要はありません。もっと積極的に出るべきです」
「でも……」
彩香の脳裏にハンスの言葉が甦った。

――完璧な演奏でした。でも、それだけ。僕から言わせたらつまらない演奏です

「もっと具体的なアドバイスをいただけますか?」
彩香は言った。
「そうですね。では、ほんの気持ち、この小節の入り方を鋭くしてみてください。それと、繰り返し部分のトップ、若干左手を放すのが早かったように思えます。あくまでもほんの僅かな誤差のうちですけどね。実際この程度なら審査員でさえ気に留めることもないような小さな誤差です」
「わかりました。やり直します」
彩香は再び鍵盤に指を置いた。

――君の演奏は完璧過ぎます

(そうよ。わたしはいつだってパーフェクトを目指して来た)

――でも、それだけ……

(完璧で何がいけないの? わたしは……)

――彩香さん……

(井倉……)
彩香はエレベーターの前ですれ違った時の井倉の寂しそうな表情を思い出した。

――ねえ、聞いた? あの井倉が今度のコンクールで彩香さんに勝ってみせると宣言したそうよ

(あの井倉が……)

――身の程知らずにも程があるわ
――ねえ、彩香さん、そうは思いませんこと?
――そうね。身の程を弁えない者にはしっかりと実力の差を思い知らせてやるわ

(そうよ。実力の差を……)

「どうかしましたか?」
フリードリッヒが覗きこむ。演奏が終わっても彩香がじっと鍵盤を見つめたきり黙っていたからだ。
「いえ、何でもありません」
感情を見せずに彩香は言った。
「ではもう一曲、確か自由曲の方はラフマニノフでしたね。そちらも聴かせてもらえますか?」
「はい」
彼女はさっと楽譜を取り換えると迷うことなく曲を弾き始めた。

――コンクールで彩香さんに勝利するって……

(そんなこと許さないわ。たとえハンス先生や黒木教授が指導を担当しようとわたしは完璧に曲を弾く。井倉、あなたには絶対負けないわ)


一方、ハンスの家に居候している井倉は黒木とハンスの厳しい指導のもと、ピアノの腕は着実に上達していった。

「井倉君、掃除機の吸い込みがよくないのだが、どうしたらいいのかね?」
家政夫としての黒木の扱いにも大分慣れた。
「ああ、ゴミがいっぱいになっちゃったんですよ。これを外してゴミを捨てないと……」
「掃除機を掃除しないといけないのか? なかなか面倒なものなんだね」
「そうですね。でも、どんな道具にもメンテナンスは必要ですよ。ピアノにも調律が必要なように……」
「なるほど。君の言う通りだ。感謝するよ、井倉君。おお、見ろ。何と清々しいばかりの吸い込みだ。よし。もっとどんどん掃除するぞ。お掃除ロボットごときに負けてられるか」
すいすいとカーペットの上を滑る自走式ロボットを脇にどけて、黒木は掃除機のホースを抱えてリビングを出て行った。

「黒木先生、大丈夫かなあ。この間もお風呂掃除はりきり過ぎて筋肉痛になっていたし……」
井倉は少々心配になったが、どうしてもやると言って利かない教授を無理に止めるなどということはできなかった。

その時、玄関の扉に付いているメロディーボールが鳴った。出掛けていたハンス達が帰って来たのだ。井倉は急いで玄関まで出迎えに行った。
「お帰りなさい」
あとから黒木も駆け付けて来る。が、帰宅した二人の様子がおかしい。ハンスは涙を浮かべていたし、美樹はしきりに彼を宥めていた。

「仕方がないわよ。お店の人だって明後日には入ると言っていたでしょう?」
「それじゃあ、美樹ちゃんは、この僕に明後日まで我慢していろと言うですか?」
ハンスが拳を握り締めて抗議する。
「だってすぐじゃない。明後日なんて……」
困ったように言って美樹がため息をつく。
「僕は今すぐがよかったんです! 今すぐじゃなきゃいやだ!」
ハンスが叫ぶ。
「そんな無理なこと言わないのよ。ほら、井倉君達が驚いてるじゃない」
スリッパを差し出した井倉は困惑したように二人を見つめていた。

「あの、何かあったんですか?」
井倉が恐る恐る訊いた。
「それがね、大したことじゃないのよ」
美樹がそう言い掛けた時、ハンスが叫んだ。
「僕にとっては大したことです!」
「ハンス先生、いったいどうされたんです? 場合によってはこの私も黙っている訳には行きません」
黒木も口を出して来た。彼が入ると話がややこしくなるので井倉ははらはらしたが、ハンスが話し始めたので黒木は大人しくそれを聞いていた。

「今日はとてもお天気がよいです。こんな日には外でシャボン玉を飛ばしたら、きっときれいだろうなと思ったんです。それで、僕は思い出しました。先週、子ども達とシャボン玉で遊んだ時のがまだ少し残っていたのでした。だから、それで遊ぼうとしたら、蓋が開いていて、中の液体がみんな無くなってしまったです。それで、仕方なく、お店に買いに行ったんです。なのに、そこにはシャボン玉売ってなくて、それで……」
「3軒回ったんだけど、どこにも置いていなかったの」
と、美樹が付け足すように言った。

「でも、最後に寄ったお店では明後日入荷する予定があるからと言ってくれたのよ。それなのに……」
脇で拗ねているハンスの方を見て彼女が言った。
「待てないです!」
彼は断固として言った。
「僕は今すぐ遊びたいです!」
泣き出したハンスの足もとに絡みつく猫達が上を見上げて心配そうに鳴いた。

「シャボン玉ですか……」
井倉が確認するように訊いた。
「そうなのよ」
美樹が頷く。子どものようだと井倉は思ったが、これもまた美樹が言っていたように例の事故の後遺症なのかもしれないので黙っていた。
「確かに、こんな素晴らしい天気の日にはシャボン玉を飛ばしたらさぞかし美しいでしょうね」
黒木がハンスを庇うように言った。

「そうだ。液が売ってないなら作ればいいんですよ」
突然、井倉が思いついたように言った。
「え? 作れるんですか?」
ハンスがぱっと顔を上げて彼を見つめる。
「ええ。材料さえあれば……。水と台所用の洗剤、それに洗濯のりがあるといいんですけど……」
「洗濯のりなんてないわよ」
美樹が言った。
「薬局で売ってますよ。ああ、僕が買って来ます」
そう言って出て行こうとする井倉を黒木が止めた。

「待て。買い物なら私が車で行った方が早い。その間に井倉、おまえは他の材料を準備してくれ」
「はい。それじゃあ、洗濯のりはPVAが原材料に使われている物を、それとグリセリンもあったらお願いします」
「わかった。PVAとグリセリンだな?」
黒木はそう言うと玄関を飛び出して行った。

「ほんとに作れるんですか?」
ハンスはにこにこしながら井倉のあとに付いて行く。彼らは台所へ入って行った。
「ええ。妹がまだ小さかった頃作ってやったことがあるんです。ああ、あった。ゼラチン……。これがあるとちょっと変わった物が作れるんですよ」
台所の戸棚から使い掛けのゼラチンを取り出して井倉は笑った。
「へえ。井倉君って物知りなのね」
あとから来た美樹も感心したように言う。

「たまたまテレビで見たんです。でも、しばらくやってなかったからうまくいくかなあ」
「大丈夫ですよ。僕は信じてます」
ハンスがうれしそうに笑って井倉の手を取った。
(何か絶対に失敗は許されないって感じ……)
井倉は苦笑しつつも台所用洗剤の成分を確かめて頷いた。

「あったぞ! 洗濯のりとグリセリン」
驚くようなスピードで黒木が帰って来た。
「それで、どうするんだ? 井倉」
黒木が買って来た品物をテーブルに並べて訊いた。
「ぬるま湯と洗濯のり、それに台所用洗剤を一定の比率で混ぜるんです」
井倉が慎重に測りながらそれらを混ぜた。

「それから?」
好奇心いっぱいの瞳でハンスが訊いた。
「これでおしまい。でき上がりです」
「え? それだけですか?」
「はい。それだけです。ストローに付けて吹いてみてください」
言われてハンスがその液体の入っている容器を持って庭に下りた。そして、そっとストローに液体を付けてふーっと息を吹き入れた。と、ストローの先から美しいシャボン玉が群れるように空に向かって飛んで行った。

「わあ! きれい……」
ハンスがそれを見上げて喜んだ。
「よかった。比率間違えていなかったみたいだ」
井倉はほっと胸をなでおろした。
「井倉君、ありがとう」
美樹もお礼を言う。

「ところで井倉、グリセリンはどうするんだ?」
黒木が訊いた。
「それにゼラチンも……」
美樹も言った。
「ええ、これらを混ぜると、ちょっと変わり種のシャボン玉ができるんです。割れにくいのとか、すごく大きいのとかね」
「手に乗せても壊れないやつも作れるんですか?」
「はい、多分」

「それってまえにルドが作ってくれたことがあったんですけど、とても楽しかったです」
「へえ、お兄さんってやさしいのね」
美樹が微笑すると、ハンスが否定するように口を尖らせて言った。
「いいえ。だって一度しか作ってくれなかったもの。あとはお店で勝手に買って来なさいって言うんだ。僕はルドが作ってくれたので遊びたかったのに……」
「お兄さんのように上手にできるかどうかはわかりませんけど、一応作ってみますね」
そう言うと井倉は部屋に戻って調合し始めた。ハンスはその場に残ってまたシャボン玉を吹き始めた。

青い空にそれはきらきらと光って美しかった。そんなシャボン玉の列を黒木も見つめる。不意にハンスが振り向いて笑った。その屈託のない笑顔が幼かった頃の息子の顔と重なる。

――お父さん、見て! シャボン玉だ。きれいだね

「黒木さん、どうかしたですか?」
ハンスが不審そうに訊いた。
「いえ、ただちょっと思い出したんです。息子がまだ幼かった時、一緒にシャボン玉を飛ばしたことがあったなと……」
「息子さん?」
青い空に飛行機雲が伸びて行く……。
「もう昔のことです」
そう言うと黒木はまた遠い空を見つめた。

ハンスがもう一度シャボン玉を飛ばす。それは淡い虹のように空気に溶けて散った。
「ずっと消えなければいいのに……」
ハンスが呟く。

――きれいなままずっと消えなければいいのにね

(ずっと消えなければ……)
遠い記憶の風が隔てられた親子の想いを運ぶ。しかしそれは、シャボン玉のように脆い虹のような絆だった……。

「僕の父もピアニストでした」
唐突にハンスが言った。
「でも、僕は父が嫌いでした。いつでも自分が一番正しいと信じて、その考えを僕に押し付けて来るんです。ピアノでも何でもそうだった。それに、父はとても体が大きくて怒るととても怖かったんです。だから、僕はそんな父が嫌いだった。いつも厳しくて怒ってばかり……。どうしてあんな父を母が好きになったのか僕にはわからなかったけど……。もうそれを訊いてみることもできません。二人共、僕の手の届かない遠いところに逝ってしまったから……。あのシャボン玉のように……」
「ハンス先生……」
手の届かない場所に行ってしまった息子を思い、黒木は黙って空を見つめた。

「あ、井倉君が来ました。もう出来たですか?」
ハンスが訊いた。
「はい。これが割れにくいシャボン玉の液です」
「いいですね。それじゃあ早速作ってみましょう。ほら、黒木さんも……」
光の中でハンスが笑う。そんな笑顔がシャボン玉に映る。そのシャボン玉を掌に取って、黒木は大事そうに見つめた。


オルゴール時計が鳴った。
「よし。レッスンを始めようか、井倉」
黒木がリビングへ戻って来た。
「はい。でも……」
テーブルの上を片付けながら振り向く。
「あとはわたしがやっておくから、井倉君はピアノの方へ行って」
美樹が言った。

「ごめんなさいね。ハンスが我儘言うものだから……」
「いえ、いいんです。僕も楽しかったですし、昔妹と遊んだこととか思い出して……」
井倉が笑う。
「こら、井倉! 何をしている? 早く来い」
再び黒木が呼んだ。
「はい」
井倉は軽く美樹に頭を下げるとピアノの方へ飛んで行った。

「何を愚図愚図しているんだ? コンクールまではもう1週間もないんだぞ」
頭から怒鳴られた。ついさっきまで庭でシャボン玉を見つめて和んでいた人とは思えない豹変ぶりだ。
「はい」
井倉はすぐに楽譜を広げて弾き始めた。注意書きが書き切れずに何枚もコピーしたその楽譜にまた新たな注意が加えられる。
「馬鹿者! 今更、まだそんなところでつまずいていてどうする! 基礎も満足にできないのなら、ハノンからやり直せ!」
黒木の指導は日を重ねるごとに熱を増していた。
「はい。わかりました」
井倉がもう一度弾き直すために鍵盤の上に手を戻す。

「……」
一瞬左手に微かな違和感を覚えた。が、弾き始めるとそれはすぐに消えた。黒木の恐ろしい形相と曲の激しさに紛れ、そんな違和感など一瞬にして消しとんだのである。

「井倉君」
ハンスが止めた。
「ハンス先生……」
井倉が振り向く。黒木も思わずそちらを見た。このところ、ずっとショパンはハンス、ベートーヴェンの曲は黒木が指導するということになっていた。そして、今はベートーヴェンのソナタの練習をしていた。そこにハンスが口を出すなどということはこれまでなかった。

「左手」
ハンスが言った。
「腱鞘炎になりかけていますね?」
「え? 確かに今ちょっと違和感を感じましたけど、まだ……」
そう言って軽く左手首を捻ろうとして顔を顰めた。
「痛ゥ……!」
「やっぱりね。そうだと思ったんです。無理をしてはいけませんよ。僕も昔そういうことがあって無理をしました。もう少しでピアノが弾けなくなるところだったですから……」
ハンスが深刻な表情で進言する。

「そんなことがあったんですか?」
井倉が意外そうな顔をして訊いた。
「僕の場合はコンサートの前だったので大変でした。いくら冷やしても痛みがひかなくて、一晩中眠れなくて、そのまま本番に出たんです。コンサートは無事に終わることができましたけど、そのあとしばらくスプーンも持てなくなってしまって……。だから、決して無理をしてはいけません」
「ハンス先生……」
「そうだな。そういえば私も学生の頃あったな。だが、それはプロを目指す者にとっては洗礼のようなものだ。誰でも必ず一度は通る」
黒木が厳しい表情のまま言った。
「は、はい」
井倉はびくりとして返事した。

「何だ? 何をそうびくびくしているんだ?」
「い、いえ、そういう訳ではありません」
「まあ、今日のところは湿布でもして安静にしているんだな。夕食の支度は私がするから安心しろ」
「え? でも……」
「なあに、卵焼きくらいはできるさ」
黒木は笑ったが、ハンスと井倉は顔を見合わせて苦笑いした。


「それで、夕食のメニューがスクランブルエッグにたこ焼き、それにカップスープという組み合わせになった訳ね」
夕方から出版社の人と打ち合わせに出ていた美樹が帰って来て言った。
「ははは。その、どうしても卵がうまく引っくり返ってくれんのですよ。それにちょっと目を放した隙に焦げ付いたりしましてね、冷蔵庫にあったのをみんな使ってしまいました」
黒木が頭を掻き掻き言い訳した。

「だったらデリバリーでもすればよかったのに……」
美樹が言うとすかさずハンスがその口に人差し指を当てる。
「しっ。そんなことをしたら、黒木さんのプライドを傷つけてしまうからよくないです。って、井倉君が言ってました」
「井倉!」
黒木が睨む。
「すみません」
びくりとして首を竦める井倉。しかし、そんな彼の肩を掴んで黒木は言った。
「いや、いいんだ。気にするな」
「はい。でも、その……本当にすみませんでした」
井倉は深々と頭を下げた。

そして、食事が終わると黒木が皿を洗った。例によって井倉が自分がやると名乗り出たが、手を安静にしていろと黒木が頑として彼を追い払ったのである。
「あの、すみませんが、これもお願いします」
井倉がリビングから小皿を一枚持って来て渡す。
「おお、わかった。そこに置いておけ」
「はい」
井倉が皿を置いて立ち去ろうとすると、黒木が止めた。

「ところで、井倉」
また何か叱られるのかと彼が肩を震わせたのを見て黒木が言った。
「私のレッスンは、そんなに怖いか?」
「はい」
言ってしまってから慌てて口を塞いで言い訳をした。
「いえ、そんなことは……」

――僕は……お父さんが怖い……!

黒木の脳裏に息子のことが浮かんだ。才能のある子どもだった。だから幼い頃から基礎を叩きこみ、最年少で国内コンクールを制した。将来を嘱望されていた自慢の息子だった。
(私があいつの将来を奪った……)

――お父さん、僕にはもう弾けません。だから、許して……

(あの時も……そして、今も私は……)

――僕の父もピアニストでした。いつも厳しくて怒ってばかりの父のことが、僕はずっと怖かったんです

ハンスの言葉がその胸に去来した。

「そうか。そんなに怖いか……」
黒木は肩を落とすと、じっと窓の外を見つめた。
「いえ、そんなことは……」
井倉が言い訳するのを軽く手で制して教授は言った。
「いいんだ。無理しなくても……」

――あなたが無理をするからあの子は心を病んでしまったんです。もうピアノも、あなたの顔を見ることも耐えられないそうよ。可哀想に……ずっと我慢していたんだわ。もうあの子をこの家に置くことはできません。わたしの実家で面倒みます。いいですね?

妻はいつも物ごとに対して的確な判断を下した。彼女は家事も仕事も完璧にこなす才媛で、子育ても順調だった。彼女は何度も忠告した。ピアノを強要することは子どもを追い詰めることになると……。しかし、黒木にはそれが我慢できなかった。目の前にある才能を開花させようと努力することが何故いけないのか、理解できなかった。

(あれ以来、私は我武者羅にやって来た。学生に対してやさしく接しているつもりでも、熱が入るとつい厳しいことも言った。それが私のコンセプトだ。自分を変えるなんてことはできなかった。だが、果たしてそれで本当によかったのかはわからない。だが、そうするしかなかった)

「黒木先生……」
黒木がじっと思いつめたような顔で押し黙っているので井倉は落ち着かなかった。水道管を伝う水の音に微かな調べが含まれている。

「ハンス先生のようにやさしく指導できたらよいのかもしれないな」
呟くように黒木が言った。
「だが、生憎私が教わった恩師達は皆厳しい人ばかりだった。厳しくすることで生徒は伸びて行くものだと信じていたんだ」
黒木の表情が揺れる。そんな黒木を見るのははじめてだった。蛍光灯の下で斜めに伸びる百合の影……。白い花瓶の光沢と背後で流れる水の音が、彼らの心に微細な交流をもたらした。

「厳しくするのは悪くないと僕は思います」
井倉が言った。
「甘やかされたら、僕はきっと怠けていい加減な練習しかしなかったと思うんです。厳しくされたからこそ、一生懸命練習しました。叱られるのが怖かったからと言ってしまえばそれまでですけど、でも、そのおかげで僕はこれまでやって来れたんだと思います。だから……」
「井倉……」
あたたかい潮騒のような鼓動が二人の耳の奥で響き合う。

「それに、ハンス先生は確かにやさしそうに見えますけど、本当は黒木先生よりずっと怖いです。でも、それが当たり前なんじゃないでしょうか。本気でプロを目指すなら、それくらい厳しくしてもらえないと駄目だと思うんです」
井倉の言葉に黒木は感動していた。
「そうか。よし! よく言った、井倉」
黒木はその肩を叩いて熱く言った。
「それならば遠慮はいらんな。これからもびしびし行くぞ! 覚悟はいいな?」
「は、はい!」
そう返事はしたものの、心の中では後悔していた。

(ど、どうしよう、僕。プロになるなんて……それに、もっと厳しくされたいみたいなことまで言っちゃって……取り返しが……)
その時、丁度ピッツァを抱えてやって来たハンスと目が合った。
「そうですか。わかりました。井倉君、お望みならば明日からはもっと厳しくしてあげます」
「そんなぁ」
井倉は思わず悲鳴を上げた。が、二人の恩師は顔を見合わせてうれしそうに笑っている。そんな彼らの間をシャボンの泡がふわりと横切って行った……。